PRの歴史(アメリカ)
パブリック・リレーションズは主にアメリカにおいて、戦争や政治、産業などで活用され、現在まで発展してきた。
戦争
‐独立戦争
リーダーは、民衆が参加しやすい組織づくり、一体感をもたらすシンボルやスローガンの設定、議論できる場など、人々の心に理念が浸透するコミュニケーションのチャネルづくりを準備した。それは多くの民衆を扇動することとなり、独立を勝ち取るまでに至った。
‐第一次世界大戦
アメリカ政府は、多くのジャーナリストやPRマンをつかい、自国の理想がいかに崇高なものか、敵国がいかに邪悪であるかを民衆へ発信した。その結果、自国民に戦争を行う大義名分を浸透させ、敵対心を煽った。
‐第二次世界大戦
ナチズムで有名なヒトラーは、自ら宣伝機関をつくり一部の情報機関だけが近づけるような体制にした。こうすることで自分の手の内で情報をコントロールできるようにした。メッセージを発信するときには、大衆が歓喜し、喝采しているシーンを演出することによって、大衆心理を植え付け巧みに利用していた。
政治
‐ニューディール政策
世界恐慌により不況のなか、アメリカ国内ではその原因が政府にあるのか産業界にあるのかという、PR合戦が行われた。産業界はニューディール政策に反対するためにPR会社を利用して産業界に有利な世論をつくろうとした。一方で政府は、国民の意識調査を行い、大統領のメッセージに組み込んだ。また、当時新しいメディアであったラジオを上手く利用して民衆の支持を得た。
‐大統領選挙
1960年のケネディとニクソンの大統領選挙では、初めて導入されたテレビ討論の印象が勝敗の分かれ目になったと言われている。テレビ討論前の調査ではニクソン有利であった。しかし、ケネディのスーツが濃いグレーであったのに対してニクソンは薄いグレーであり、白黒テレビではケネディのほうが映えた。他にもニクソンはテレビ討論において国民にマイナスイメージを与えてしまい、結果的にはケネディ大統領が誕生することとなった。
‐クウェートへのアメリカ軍の介入
1990年、イラクがクウェートに進行した際、ブッシュ大統領は軍事介入すべきか迷っていた。そこへクウェートを脱出したという少女の証言によって世論は賛成へと大きく動き、ブッシュは軍事介入を決定した。その少女の発言は「病院にイラク軍が侵入し、保育器の乳児を次々と殺した」という内容で、ブッシュはこの証言を演説で何度も話に出してイラクを批判し、軍事介入の必要性を国民に訴えた。しかしこの少女と証言は、アメリカの軍事介入が支持される世論を作りだし介入を促すために、クウェート政府がPR会社に依頼しでっち上げた作り話であることが後に明らかになった。
産業
‐ペンシルバニア鉄道事故
20世紀初頭まで、鉄道会社は問題が起これば隠し、新聞等に掲載されないようにする習慣が業界全体にあった。そのなか1906年にペンシルバニア鉄道で事故が起きた。従来通り、隠そうとした鉄道会社に対して、優秀なPRマンがストップをかけ、記者に記事にさせた。一方、同時期に事故が発生した競合の鉄道会社は隠蔽策をとった。しかし全ては隠せず、結局どちらの事故も報道されることとなり、競合会社は非難され、ペンシルバニア鉄道はむしろ評価をあげた。
‐大衆消費革命
第二次世界大戦後の1950年代に、アメリカでは大量生産・大量消費の時代が到来した。このとき、蓄積されていたPRの研究が大衆消費革命推進の武器として利用された。マーケティング戦略として、人間の深層心理に働きかけて消費を促すというように、PRがマーケティング手法の一つとして大衆操作の担い手となった。
‐オリンピック招致
北京オリンピック招致委員会はアメリカのPR会社を利用し、2008年オリンピック開催を実現した。メディア対応の方針を徹底したり、北京開催のネックとなっていた問題に積極的に対処した。その結果、国際世論をひっくり返し、問題を払拭することで(※解決ではない)、招致成功を収めた。